武甲山や大持山・小持山を歩いたことのある方なら「持山寺跡」という史跡をご存知かと思います。「一の鳥居」から武甲山に登る時、途中で鉄の小橋を左に渡るとシラジクボに至るのですが、その途中に持山寺跡への分岐があります。かつてここに持山寺というお寺があったのです。標高は約900m(写真はいずれも2023年5月に撮影)。
シラジクボ方面との分岐で、下のような石碑が目に入ります。たぶん「南無阿弥陀佛」と刻まれているのだと思いますが、あまり見かけない、渦を巻くような独特な書体で見入ってしまいます。左には「西賢」とあります。下に描かれているのは蓮の花でしょうか。
奥に160mほど歩くと、あまり密集していない杉の植林のなかに、開けた場所が見えてきます。ここが持山寺跡らしく、ぱっと見た感じでは構造物の遺構などは見当たらず、ただの空き地のような印象を受けます。
横瀬町観光協会による案内板と、供養塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)はあります。
この宝篋印塔も立派で、先の三叉路にあった石碑と同じスタイルの「南無阿弥陀佛」が刻まれています。横瀬町役場のサイトによると、この宝篋印塔は1854年に建立されたものと思われます。
苔むしていながらもあまり風化してはいなくて、存在感があります。果たして、ここにはどんなお寺があったのでしょうか。絵でも残っていたら良いのですが、持山寺跡に関する情報は、ネット上にはほとんどありません。
横瀬町観光協会による案内板では、次のように説明されていました。
持山寺跡は「阿弥陀山念仏寺」の廃寺と伝えられ、武甲山から続く小持山の山腹、標高900mのところにあります。
周辺には竹林、滝、池跡、入定(にゅうじょう)場、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(供養塔)などが現存しています。
この持山寺には長七郎伝説が残されています。松平長七郎は、駿河大納言 徳川忠長(徳川三代将軍 家光の弟)の子で、忠長は寛永10年(1633)に切腹させられています。この時、家臣に長七郎長頼の行末をたのんで死んだということです。秩父に伝わる口伝では、秩父を点々と歩き、終の住処(ついのすみか)としたのがこの持山で、ここで少庵を営み、祖圓(そえん)和尚を名乗り、最後には大鎌を首にまいて念仏往生をとげたといいます。下男に「この念仏が聞こえなくなったら、この紐を力一杯引いてくれ」と言い残し、石室に入り念仏を三日三晩唱え続けたといいます。四日目、恐ろしくなった下男は紐を引いてしまいました。念仏がハタとやみ、同時に一羽の小鳥が「カキット、カキット」と鳴きながら飛び出して行ったそうです。
この「松平長七郎」は実在しない架空の人物だったという説があります。その人がここ持山に流れついて、祖圓というお坊さんになった。というのがここに残されている伝説です。本当かどうかは誰にもわかりません。
しかし、それはそれとして、この説明書きを読んでいて全然意味がわからなかったのが、後段の怪談のようなエピソードです。
読む限り、下男はまだ祖圓和尚の念仏が聞こえていたのに、紐を引いてしまったようです。恐ろしくなった、とのことですが、なぜ恐ろしくなったのかがわからない。一羽の小鳥が「カキット、カキット」と鳴きながら飛び出して行った、というのも全く意味がわからない。
カキット、カキット、とは何なのか。大鎌で首が切れた時の擬音なのか。それとも特定の鳥の鳴き声なのか。横瀬町観光協会による白い鳥のイラストも、目が不気味です。普通に考えると、ホラーみたいな話ではないですか。説明不足なので余計に怖い。
近くに竹林はありました。他に石室と、先に紹介したものとは別の宝篋印塔(17世紀建立)もあるそうですが、私は見たことがありません(よく探せばどこかにあるのかもしれません)。
しかし、よくこんなところにお寺があって、人が住んでいたものだなぁと思わされます。むかしはこのすぐそばにも水場はあったのかもしれませんが、当時は結構な深山だったことでしょう。石碑や宝篋印塔を見る限り、かなり立派なお寺があったのではないかと思わされます。
あたりはシ〜ンとしていて、物音一つ聞こえません。余計に怖いです。